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大分地方裁判所 昭和60年(ヨ)169号 決定 1985年12月02日

債権者

甲野一郎

債権者

甲野花子

右両名代理人

松木武

債務者

甲野次郎

主文

本件仮処分申請を却下する。

申請費用は債権者らの負担とする。

理由

一本件仮処分の申請の趣旨及び理由は、別紙「左脚切断手術断行仮処分申請書」の「申請の趣旨」及び「申請の理由」に各記載のとおりである。

二ところで、債権者らがいかなる根拠に基づいて申請の趣旨記載のような仮処分を求めるのか、その主張するところは必ずしも明らかではないが、その趣旨を忖度するに、債権者らは債務者の父母として、債務者との間に平隠な親族関係を享受し、親族関係における幸福を追求し保持する権利ないしは利益、債務者に対し将来の扶養義務の履行を期待する期待権等を包摂した「親族権」とでも称すべき人格的権利ないしは利益を有しているところ、債務者が本件手術にあたり輸血を拒否することは、結局手術を不可能とし、ひいてはその生命を自ら絶つことに等しく、債権者らの右権利ないし利益を故意または過失によつて侵害する不法行為にほかならないので、債権者らは、債務者に対し、不法行為に基づく妨害排除(予防)請求権に基づき、その侵害をあらかじめ排除(予防)するよう求めるというにあるように理解することができる。

三そこで、本件仮処分申請が右のような趣旨のものとして、以下検討する。

1本件各疎明資料によると一応次の事実が認められる。

(一)  債権者らは、昭和二三年に結婚した夫婦であり、その間には成人した三人の子(一女二男)があり、債務者はその二男である。債務者は、昭和五一年に現在の妻と結婚し、同女との間に長女(昭和五一年一二月五日生)、長男(昭和五三年五月一三日生)及び二女(昭和五四年一〇月四日生)をもうけ、これまで平隠な家庭生活を営んできた。債権者らと債務者の家族との関係も良好で、債権者らは、債務者との間に平隠で幸福な親族関係を保つてきた。

(二)  債務者は、左足の大腿骨を骨肉腫という癌の一種に侵され、このために大腿骨を骨折し、昭和五九年一二月以来大分医科大学整形外科に入院している。右骨肉腫は、放置しておくと身体の他の部分へ転移し、やがて死の転帰に至る可能性が高い。右病院の担当医師は、債務者に対し、「右骨肉腫の転移を防ぐ最善かつ確実な方法は早期の患部(左足)切断手術である。右手術を施行すれば施行しない場合に比してかなりの確率で救命しうる。」旨説明して右切断手術をうけることを勧告した。ところが、債務者は、右手術の必要性を理解し、担当医に対してその実施方を強く希望したものの、同時に右手術に伴って必要とされる可能性のある輸血の実施についてはこれを拒み、輸血をすることなく右手術を施行して欲しい旨述べた。

(三)  債務者は、精神状態や判断能力において、特に通常人と異なるところはなく、正常であり、輸血以外のすべての治療を受けることは強く望んでいるが、本件疾病に罹患後帰依した「エホバの証人」というキリスト教の一宗派の教義、信仰上の理由に基づいて本件切断手術に伴う輸血を拒否しているものである。すなわち、右宗派では「血を避けるように」との聖書の教えは医療上の処置としての輸血にもあてはまると解し、聖書の教えに従えば、たとえ輸血を受けずに一命を失つてもやがて復活し、永遠の生命を得られると信じている。債権者の妻もエホバの証人の熱心な信者であり、債務者の輸血を拒む態度を積極的に支持し激励している。

(四)  その後、前記病院では、債務者が輸血を承諾しない限り本件手術を施行しない方針をとり、担当医師らによつて債務者への説得が続けられている。この間、債務者の骨肉腫に対しては、放射線療法や化学療法(制癌剤の投与)による治療が行なわれている。

2右事実関係をもとに考えるに、まず、債権者らは債務者の両親であり、親族としての身分関係に基づき、将来万一の場合、債務者に対し扶養を請求し、それを期待しうる地位を有するほか、債務者との間に幸福な親族関係を保持することにつき一定の権利ないしは利益を有しているものと解しえないではない。そして債務者の本件輸血拒否行為は、それによつて不幸にも骨肉腫の全身転移による死の転帰に至る事態を生じた際には、債権者らの右権利ないし利益を侵害することになる。

3  そこで、以下債務者の本件輸血拒否行為が違法性を帯びるものであるか否かについて検討する。

債務者は、理解、判断能力を含めて正常な精神的能力を有する成人の一男子であり、本件輸血拒否によつてもたらされる自己の生命、身体に対する危険性について十分知覚したうえで、なお輸血を拒み続けているものである。そして本件輸血拒否は、債務者の属する宗派の宗教的教義、信念に基づくものであり、債務者も右信念を真摯に貫徹することを希求し実践しているのである。このような債務者にとって、輸血を強制されることは、信仰の自由を侵されることに等しいものと受止められることは否み難い(もとより、右宗教的教義や信念の内容の当否、合理性いかんについては、裁判所のよく判断できるところではない。)。このように、本件においては、債務者が真摯な宗教上の信念に基づいて輸血拒否をしており、その行為も単なる不作為行動に止まるうえ、債権者ら主張の前記被侵害利益が、債権者の有する信教の自由や信仰に基づき医療に対してする真摯な要求を陵駕する程の権利ないしは利益であるとは考え難いことであり、その他叙上の本件輸血拒否行為の目的、手段、態様、被侵害利益の内容、強固さ等を総合考慮するとき、右輸血拒否行為が権利侵害として違法性をおびるものと断じることはできない。(尤も、個人の生命については、最大限に尊重されるべきものであり、社会ないし国家もこれに重大な関心をもち、個人において、私事を理由に自らの生命を勝手に処分することを法認することができないことはいうまでもない。しかし、本件においては、債務者は輸血を拒む以外切断手術を含む他のあらゆる治療を受け、その完治、生命維持を強く願望しているのであり、治療方法としても、放射線療法や化学療法など他の方法も存在することに鑑みると、本件輸血拒否行為を、単純に生命の尊厳に背馳する自己破壊行為類似のものということはできない。)

4以上によれば、債務者の本件輸血拒否行為が違法性を帯びるものと認めることはできず、本件仮処分申請が先に述べた趣旨に出たものであるとすれば、被保全権利の存在につき疎明がないこととなる。また、本件全疎明資料をもつてしても、他に債権者らが求める申請の趣旨記載の仮処分を根拠付け得る何らかの被保全権利を有するものと認めるには足りない。

5そうすると、債権者らの本件仮処分申請は被保全権利の存在につき疎明がないことに帰し、また、本件の事案からすると、保証をもつて右疎明に代えることも相当でない。

三よつて、本件仮処分申請を却下することとし、申請費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官川本 隆 裁判官原村憲司 裁判官小久保孝雄)

左脚切断手術断行仮処分申請書

申請の趣旨

債権者らは共同して債務者にかわり大分医科大学医学部付属病院に対し債務者の左脚切断手術及びそのために必要な輸血その他の医療行為を委任することができるとの裁判を求める。

申請の理由

一 債権者らは、債務者の父母であり、債務者は債権者らの二男である。

二 債務者は、昭和五九年秋頃大腿骨に骨肉腫ができ、そのため同年一二月一日大腿骨を骨折し、同日市ケ谷整形外科病院に入院し、その後同年同月二八日大分医科大学医学部付属病院に転入院して治療を受けているものである。

債務者の主治医である大分医科大学医学部講師Aは、債務者に対し、債務者の病気は癌の一種である骨肉腫であるから、早急に患部を含む左脚全部を切除しなければ、癌が他の場所に転移して死亡する旨告知し、左脚切断手術を勧告しつづけている。

ところが、債務者は、左脚の切断手術そのものは委任したものの、そのために欠くことのできない輸血を拒否しているため、右手術を施行することができない。

債務者が輸血を拒否しているのは、それが同人の信仰する「エホバの証人」の教義に反すると信じているためである。

三 債権者らは、昭和六〇年六月一〇日、債務者が輸血を拒否していることを知り、以来今日まで、可能な限りの手を尽くして、債務者の説得に努めて来た。しかし、結局、債務者を説得することができず、今後も説得の可能性がない。

四 債務者は、現在、左脚を切除しなければ、左脚の骨肉腫が他の場所に転移し、必ず死亡する状態に置かれている。この点を考慮すれば、債務者の輸血拒否は自殺行為と同断であり、その限りにおいて正常な判断力を欠いでいるとみるべきである。

五 債務者は、債権者らにとつては、何にも代えがたい、掛け替えのない宝である。その債務者が、正常な判断力を欠ぎ、今まさに自殺しようとしているのである。債権者らは、債務者の父母であるから、債務者の自殺同然の行為を排除し、債務者を看護し、債務者の生命、健康を擁護する法律上の権利を有している。よつて本仮処分の申請に及んだ。

なお、本件につき、被保全権利を検討するときは、刑法が自殺関与罪(六月以上七年以下の懲役又は禁錮)を設けたり、民法が生命(身体)の侵害につき親兄弟に賠償義務を負わせたり、緊急の場合の事務管理につき特別の規定を設けたり、親族間の互助義務を宣言したりしていることに注目して戴きたい。

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